雑感:広辞苑改訂
写真:靈山寺の秋ばら(ここをクリック)
新聞に ==
 「広辞苑」 (岩波書店)の第6版が来年1月11日に刊行されることになり、東京都内で23日、発表会が開かれた。 改訂は10年ぶり。第5版収録の全23万項目を再検討、 「めっちゃ」や「うざい」、「いけ面」「ラブラブ」といった現代語など約1万項目を追加した計24万項目を収録した。
== といった記事が出ていた。

 右に、新収項目のコピーを載せているが、<現代語>や<カタカナ語>を見てウーンと唸らされてしまう。「デパ地下」のような省略した言葉を連結したものは、日常に使う言葉としては分からなくはないが、「広辞苑」に載るような言葉とは思っていなかった。従って、「ラブラブ」、「めっちゃ」、「うざい」なんて言葉は、自分の娘には絶対させたくない(ケバケバした)化粧をした女が喋っているのを連想し、とても使い辛い言葉であって、「広辞苑」とは縁遠い言葉と思っていた。
 現代の若者言葉は、感覚的でぼんやりとしていて、あやふやな限定しないものが多い。永年仕事(コンピュータ)の関係で、1つ1つきっちりと限定した、誤解を生じないような言葉や言葉遣いをしてきた。あやふやな言葉は、システムの大きな障害を起こしかねない。日本語に翻訳すると何がなんだか判らない言葉もあり、敢えて横文字(カタカナ言葉)を使ったりしていた。
 正直なところ、若者(と言っても何となくふわふわした人物)が使っている言葉には嫌悪感があったり、多少軽蔑していたこともある。服装や化粧法ともあいまって、だらしのない、けじめのないものと写っていたことは否めない。また、言葉の乱れとして捉え、道徳の乱れ、ひいては社会の乱れの一因と感じていた面もある。
 こういった言葉が「広辞苑」で取り上げられることになるとは、少なからぬ驚きと、疑問符が付く。反面、選考している人達の「おおらかさ」も感じる。
 言葉はコミュニケションの一番重要な手段である。どんな言葉であれ、意思や感情を伝えることができ、共通の認識に立てるとすれば、立派な言葉と認めるべきかも知れない。
 考えてみれば、現代語の全てが理解できているわけではない。辞書でもないと、意味の分からないものが多い。「広辞苑」があれば、遅まきながら(流行おくれも含めて)理解できることになる。
 この記事を読んで、自らがあまりにも偏狭であったのではないかと反省させられてしまう。
 国語学者でないので、今の日本語がどのように構成され変遷してきたのかは知らないが、一時期疑問符が沢山付きながらも発展してきたのではないだろうか?
 私の友人で俳句を作っている人がいて、時々作品を読ませてもらっている。難しい字で、どう読むのか、どんな意味なのか分からないものがある。漢和辞典を持っていない(なくしてしまった)人間にとっては調べることが大変なのだが、読めて、意味が分かったとき、なるほどと感心させられる。今は日常的に使われていない言葉の中にすばらしい言葉があるのだと知らされる思いである。こう言う言葉を知っていること、使える能力があることは驚きであり、今の若者とは違った意味で異人種のような気がする。
 手元には国語辞典、英和辞典、和英辞典があるが、殆ど使うことはない。電子辞書が1台あって、「広辞苑」、国語辞典、英和辞典、和英辞典等々が登載されていて、大抵のことはこれで用が足りている。百科事典も昔はあったが、引越の時に捨ててしまった。インターネットのお陰で大抵のことは調べられる。
 現代は、色々な情報が溢れている。そのどれも、基本的には言葉で綴られている。言葉がなければ何も伝わらない。 日頃意識することのない言葉について、考えさせられる記事であった。